レオシュ・ヤナーチェク
モラヴィア地方の民俗音楽研究から生み出された、チェコ語のリズムや旋律を活かした独自の音楽語法を用い、朗唱風のオペラをはじめ、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲に多くの作品を残した。
20世紀前半では、祖国を除き、まだごく限られたレパートリーのみが知られる存在であったが、ピアニストのルドルフ・フィルクスニーや指揮者のチャールズ・マッケラスらの優れた演奏および録音をきっかけに広く知られるようになった。
ヤナーチェクは、スメタナ、ドヴォルザークに次ぐ、時代的にも知名度でもチェコ第三の作曲家であり、チェコ国民楽派の重要な一人に数えられる。
ヤナーチェクが先行二者との間に違いをなす点は、その音楽語法にある。スメタナとドヴォルザークは育った背景などの要因から、活用法には大きな違いがあるものの(詳しくはドヴォルザークの記事を参照)、民俗音楽の旋律やリズムを素材として扱い、それを既存の古典的な音楽語法に合わせて和声や構成を換骨奪胎していった点では共通している。ヤナーチェクは20歳の時に知り合ったドヴォルザークを敬愛しており、大きな影響を受けたが、彼は旋律を引用したり、形だけのリズムを切り取ったりはせず、その音楽の形式そのものから民俗音楽の語法を取り入れ、自らの語り口にするというやり方をとった。
1886年以降に彼が行った、民謡の生まれた現場へ出かけてそれを採集して、自らの音楽語法として取り込む民俗学的なフィールド・ワークの手法は、その20年後にバルトークとコダーイがハンガリーやルーマニアで、さらにその15年後にポーランドでシマノフスキが始めている。
ヤナーチェクの登場した19世紀後半、後期ロマン派の音楽は爛熟を極め、その和声の錯綜はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」に至り、行き詰まっていた。
この頃、中東欧を支配してきた強大な帝国の求心力は急速に低下し、それまで中央の政府に抑圧され、演奏が禁じられすらしていた自らの言葉を自らの旋律に乗せて歌う民謡が、祖国独立を訴える民族運動のたかまりと共に見直されつつあった。この動きに連動し、民謡を自らの音楽に取り入れ健全化しようと考える音楽家が現れた。帝国支配が行き渡ることにより街道の交通網が整備され、音楽家がその現場を訪れ直接耳にする機会が増えたことも、このような手法が登場する要因の一つとして評価すべきではあるが、しかしそれは、地域交流により土地固有の民謡が損なわれる危機をも意味していた(すでにバルトークはこれを嘆いている)。その中で民謡採集のフィールド・ワークは行われたのであり、ヤナーチェクはその先鞭をつけた。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
民俗音楽を取り入れたヤナーチェクの音楽はとても素晴らしいです。
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